ニアス
( NIAS )
本名: ジョセ・アナニアス・レイテ(JOSÉ ANANIAS LEITE)
1960年3月19日
パライバ州タバレス市に生まれる。ニックネームはニアス。10歳のときから鉛筆で絵を描き始めた。彼は子供の頃から友達から似顔絵を頼まれたりしていた。しかし、パライバ州は決して豊かではないところだから、いくら絵を描いたとしてもチャンスをつかめることはなかった。
身内から褒められるだけでは何の成長もない。考えた末、1970年、6000キロ離れたサンパウロ市にバスで向かうことを決めた。しかし最初から絵だけで生活することは出来ない。生計をたてる為の仕事もしなければならない。ニアスはレストランで皿洗いを始める。
1年間サンパウロで過ごしたが中々チャンスをつかめなかった。1980年、諦めてパライバ州に帰ろうと考えていた頃、ある学校の看板が偶然に目に入った。それは絵の学校の看板だった。今までずっと独自で絵を学んできたが、学校で学んでみたいという気持ちはあった。看板に魅かれたニアスは早速学校に向かった。そのとき対応してくれた先生がジウベルト・ジェラウド。これが運命の出会いになった。
先生はニアスのセンスをすぐに理解してくれた。普通なら指導はアシスタントが担当して直接教えたりはしないのだが ニアスだけは特別だった。先生は都心から離れたぺーニャという町にアトリエを持っていた。
ニアスは、1980~1982年までここで面倒を見てもらいながら絵の勉強に励む。昼間は皿洗いや工事現場などのキツイ仕事をこなしながら夜は学校に通う。
1989年ブラジルは不景気のどん底。ニアスは今まで生計を立ててきた仕事を失う。月謝も払えなくなった。絵を描き続けたかったニアスは先生に相談した。その結果「ニアスが使っているテーブルを担保にすれば2年間の月謝の代わりにしてもいい」という条件が出た。テーブルの価格よりも2年分の月謝の方が高かったが、学校側はニアスが有名になればプレミアが付くと考えてくれたのだった。このテーブルは現在も学校が大切に預かっている。
ニアスが自分の原点に戻ったのはこの頃。サンパウロは大都会だからコンクリートばかり。 自然の風景を知らない人も多かった。その為、田舎のシーンを伝えたいという気持ちが徐々に強くなっていった。
その後も1991年までブラジルは不景気が続く。月謝は何とかなったが生活はままならない。少しでも生活の足しにするべく、自分の描いた絵を近くの広場に売りに行ったがまったく売れなかった。そして、苦しかった生活は更に苦しくなり日本に出稼ぎに出ることを決心する。
日本に来てからも働きながら自宅で絵を描き続ける考えだった。しかし、日本語が出来ないから重労働にしか就くことが出来ない。加えて就労時間も長い。仕事の影響から思ったように指が動かせない時期が2年も続いた。
その後、少しずつ日本の生活にも慣れていき日本語がいくらか話せるようになってきた。言葉が出来れば質の良い画材も手に入れることが出来る。これはニアスにとってとても嬉しいことだった。1993年から制作を再開する。
ニアスは何もなくても幸せを感じている。その雰囲気はブラジルの田舎にある。これからも、ゆっくりと流れるブラジルの風景を多くの人に伝えていきたいと考えている。
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